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著作権は誰のため?
青空文庫を覗いた事のある方なら、作者の死後の著作権が25年から50年に引き上げられたのも束の間、今や70年にまで引き上げられるかも知れない趨勢を御存知だろう。知的財産の保護と言う名目で。(
詳しくはこちらを)
知的財産という概念が世界に普及して久しい。そして報道やネットを見る限り、知的財産という概念に、疑問どころか意見をさし挟む論調すら見られない。あたかも、タブーになってしまっているのではないかと思われる程である。その流れが、前世紀末に、ゲノムすらも特許の対象にするという、忌まわしい動きを起こしたにも関わらずである。
もちろん、知見の独占自体には、古くから異論がある。例えば、岩波文庫の「読書子に寄す」は以下の冒頭文(三木清)から始まる。
『真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を蒙昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である』
但し、この理念は、「知的財産」の尊重と全く矛盾しない。それどころかお互いに補い合う。というのも、知識の公開の理念に置いては、その知識に貢献した人々へ正当な報酬がなされる事を前提にしているからだ。だが、現実問題として、現代的な意味に置ける「知的財産」と両立するかとなると疑わしい。というのも、法律で(正確には弁護士によって)守られる「正当な報酬」の内容が50年前とは質的にも量的にも変質しているからである。
知的財産という概念を認める事と、その妥当な量(金額相当)を算出する事は全く別の話だ。更に細かく見れば、知的財産への貢献というのは、その殆どが、アイデアなり原作なりを出した個人と、そのアイデアの持つ財産の価値を高めた組織とに分かれる。たとえば、どんなに素晴らしい作品を作っても、それをプロモートする組織が無ければ、世界に広がらないし、金銭的な意味での財産にはならない。そうなると、その貢献度の算定も「正当な報酬」の問題になるが、この数量化も知的財産を認める事とは別問題となる。にもかかわらず、昨今「知的財産」と言えば、アメリカ式の、即ちアメリカの企業(プロモート組織)が大きく儲かるような「正当な報酬」が前提になっており、法律や判例もその線で進んでいる。その結果が「作者の死後」の著作権期間の延長だ。
だが、一体、「本人の死後の著作権」の期間延長は、本当に知的財産を保護・育成しているのだろうか?
著作権は、元々は作家や芸術家が、その精進と才能を報われるように、という意味で生まれて来たものだ。そして、件の作家や芸術家にとっての最大の報酬は、自己の作品がより多くの人間に鑑賞される事だろう。特に生計との両立という問題から開放される死後に置いては、それのみが唯一の関心事と言えよう。但し、昔の作家・芸術家は、作品を生み出す為に家庭をも犠牲にしなければならなかったから、彼らが死んだあとも、残された者が困らないように、ある一定期間は著作権料が遺族の元に入るシステムとして、本人死後の著作権が設定された。それが25年(海外で14〜24年で始まり、日本導入時が25年)である。国によっては50年の所もあった。妥当な数字ではあろう。更に、昔は出版にかかる手間が版の設定など今の数倍あったから、ある作家をプロモートする事は出版社にとっては一つの賭けと言えた。従って、その元を取らせるという意味で版権というのもあったし、それ以上に出版社が著作権を買い取る事もあった。こういう最低限のしがらみを除けば、あらゆる作品は、それが多くの人の目に触れる事を自ら望む。三木清の言う通りだ。
同じ創造の世界でも、学問の分野では知見を世界に共有する事が求められている。公の機関に置ける研究は、原則無償の情報公開に向かって進んでいる。研究成果の公開が当然のようになり、解説のみならず、原論文すらもpdfという形で、ネット上で入手できる時代だ。そして、彼らの場合、子孫が親の研究報酬を貰う事はありえない。それで世界の研究が止まるかというとそんな事は全くなく、論文の数は天井知らずで増加している。そこに「本人の死後の権利」という概念が入り込む余地はない。
著作権に話を戻すと、現代では出版は手軽になり、遺族も、老人福祉の制度の拡充によって、老後の生計を著作権料のみで立てて行かなければならない訳ではない。となれば、死後の著作権は、短縮する理由はあるにせよ(著作権目的の殺人を予防するため、刑事民事案件の時効の25年が妥当な筈だ)、長くする理由は何処にもない。にも関わらず、冒頭に記したように、「死後の著作権」は長くなる傾向にある。その結果、ほんの20〜30年前に死んだ作家の作品なぞ、ノーベル賞候補作家でなければ殆ど読まれる機会がない。それを作家が望んでいない事は明らかなのに。「死後の著作権」延長で喜ぶのは版権を持つ大手出版社や過去の意匠で不労所得をあげている著作権「寄生」組だけだ。
← 関連署名サイト
これが現代に置ける「知的財産の保護」の実体である。保護されるべき作家や芸術家よりも、ブローカーを保護するシステム。いかにもアメリカ的だ。だが、悲しいかな、マスコミも、多くの零細な著作権者も、この前提を一顧だにせずに、アメリカ流の「知的財産」の存在を盲目的に主張している。例えば、インターネットの普及によって、ここ数年、雨後の筍のように急速に増えた小説サイトだが、その殆どは「著作権」をあからさまに主張し、しかも「無断転載不可」とさえ表示している。「無断転載不可」の危険を十分に認識しないままに、ただただ自作が盗作でない事を主張したいが故に。そこに、己の死後に対する但し書きなど一切無い。
一体、ネットであろうが何であろうが個人の手による全ての作品には著作権というものが存在する。それを己のサイトで再び主張している以上、仮に彼ないし彼女が(不慮の事故などで)死んだとしたら、死後の50年は、相続権者の許可なしにコンテンツを公開する事が厳しく禁止されのである。わざわざ無料で公開し、読者が増える事を切望している筈であるにも関わらずである。しかも、多くのサイト運営者が、家族にサイトの存在を知らせていないにもかかわらずである。本人の死後は、相続権者である家族以外に作品を公表する権利は無い。ということは、ネット小説の多くが永遠に全て埋もれてしまう事を意味する。そればかりか、類似の作品を他の誰かが書く事すら法律で禁止されるのである。作者の死後に、その作品ばかりか類似の作品が世に現れる事を禁止する法律。それが現行の著作権法だ。その事実を考慮せずに無条件に無断転載禁止とする行為は、文芸に対する背任行為と言わざるを得ない。
「あらゆる作品は、それが多くの人の目に触れる事を自ら望む」
それが文芸の筈である。ネット小説も例外ではない。
それでも「無断転載不可」を主張しますか?
ーー 以下は過激なので賛同者は少ないでしょうが一応書いておきます ーー
もちろん、プロを目指す人が、読者からの意見によって己を研鑽する為に、取りあえずサイトに自作を「転載不可」として載せるという場合はあろう。だが、この場合も、プロに対する認識が甘いと言わざるを得ない。新作のみで生計を立てるぐらいの気合いでなければ、今の世の中は、あっという間に出版界から取り残される。寧ろ、商業的には、過去の作品に限って閲覧自由・頒布自由というサイトを持つ事は、宣伝策として悪くない筈だ。
一方、小遣い銭稼ぎの出版を夢見ている人もあろう。いや、それが大多数かも知れない。だが、出版というのはそんなに甘くないのだ。第一に、星の数ほどある小説サイトから、たった1つのサイトを選んで、『こいつは非常に儲かる』(儲からないことは出版社はしない)と思う確率はほとんどない。何らかの文学賞なりコンテストなりに入賞して、はじめて過去の作品の出版の可能性が出て来る。そこまでいけばプロを目指すとのなんら変わりない。また、原稿持ち込みの場合、最善の場合ですら、手に入る金額は、校訂など雑務に費やされる時給にすらならない。
こう考えると、サイト上の旧作で、満足いく収入を得る可能性は低い。となれば、もっと頒布を自由にした方が得策ではないだろうか。特に今のままでは、死後は完全に忘れ去られる。例えば、「杉田玄白」の基本方針を真似て、「著作権者を明記する限りにおいて無料転載自由」にするとか。そのほうが、自作の世に広めるのに効果的なことは確かである。少なくとも、わざわざ「無断転載不可」を主張する意味は無かろう。
written 2006-7-30 (revised 2007-1-17)
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